武田八幡宮

春の信玄公祭り 祈願祭で賑わう武田八幡宮

百体の観音像の刻まれた一石百観音石碑

武田八幡宮の麓に広がる棚田 山梨を代表する穀倉地帯である

 

武田八幡宮神楽より神乃舞

武田八幡宮神楽より天の鈿女の舞

素戔嗚鵜命(すさのうのみこと)大蛇退治の舞

初冬の応仁塚(わに塚)

厳寒の武田八幡宮境内

武田勝頼夫人北条氏祈願文

武田勝頼夫人北条氏祈願文
県指定文化財
武田勝頼夫人北条氏祈願文
平成四年三月五日 県指定  神山町北宮地 武田八幡宮
創建

勝頼公は、謀反を起こした木曽義昌を討伐するために精鋭部隊を木曽に向けて進軍させました。途中、鳥居峠で木曽軍と会い、幾度か激戦を繰り返しましたが、勝機がなく、ついに全滅の危機に直面してしまいました。

また、他方織田・徳川両軍は北条軍まで含めて二十数万の連合軍をつくり、甲斐の国を攻略する行動を起こしていました。

このような状況の中で、新府城で戦況を案じながら、毎日を過ごしていた勝頼公の夫人は、実の兄である北条氏政までが敵の連合軍に加わり、上州口から進撃していることを聞いて沈痛の気持ちを押えようもなく、武田家累代の守護神である武田八幡宮に祈願を決意して、お供の者に準備をするよう命じました。

「戦況の不利が伝えられる折に、夫人が域外に出られることは、御身が案じられますが、しかしこれによって武田の武運が開けるなら是非ないことと存じます」とお供の者は言って、直ちに祈願の準備にとりかかり、輿の周りを厳重に警護しながら祈願されました。

現在願文は甲府の武田神社で保管され、武田八幡宮には願文を写した石碑が建てられている。石碑の上段に写しと下段には『韮崎市誌上巻』より佐藤八郎氏の願文の読み下しが刻まれている。

武田勝頼夫人奉納願文 石碑 読み下し

うや()まって申 ( す)きくわん(祈 願)の事

として ()田の太らう()かう()せしより此かた() 代々まほ()

給ふ こゝ()ふりょ(不慮)けき新(逆臣)出きたって 国()なや()

ます よってかつ()頼 うん()てんとう(天道)まか()せ 命をかろん()して

てきちん(敵陣)むか()ふ しかり()いへ()とも しそつ(士卒) ()()さるあいた

()こゝろ()まちまち(区々)たり なん()きそよし政(木曽義昌) そくはく(若干)

りょ()むな()しくし あわれ() 身のふほ(父母)()てゝ きへい(奇兵)

おこ()す これ()()つからはゝ()かい()する也 なかんつく(就 中) かつ()頼 るいたい(累代)

十おん(重恩)ともから() けき新(逆臣)と心をひと()つにして たちま()

に くつ()かへさんとする はんみん(万民)なうらん(悩乱) 仏ほう()さま()

けならすや そもそも(抑々)かつより(勝頼) いか()てかあく新(悪心)なからんや 思い

ほの()を天にあか()り しんいなをふか(瞋恚猶深)ゝらん 我もここにし

て あいとも(相 倶)かな()しむ 涙又らんかん(闌 干)たり しんりょ(神 慮)

めい()まこと()()らは 五きゃく()きゃく()たるたくひ() しょ()天 かり()

そめ()にもかこあ(加護有)らし 此時にいた()って 神しん(信心)わたくし()

なく かつこう(渇 仰) きも()めい()す かな()しきかな() しんりょ(神 慮) ま

こと()()らは うんめい(運 命)とき()いた()るとも ねか()わくは れいしん(霊 神)

ちから()()わせて かつ()事を かつ()頼 一()つけ()しめ

たま()い あた()を よも(四方)しりそ(退)けん ひょうらん(兵  乱) かへ()((つ))て めい()

ひら()き しゅめうしゃうおん(寿 命 長 遠) しそんはんしゃう(子孫 繁昌)の事

みき()の大くわん() ちゃうしゅ(成 就)ならは かつ()頼 我 とも()に しや()

たん() みかき(御垣) ()て くわいろう(回 廊) こんりう(建 立)の事

うや()まって( す)

天正十ねん()二月十九日  みなもとのかつ(源     勝)頼 うち()

(『ふるさと読本「かみやま」』韮崎市立神山公民館、1993、56-57)