武田八幡宮

春の信玄公祭り 祈願祭で賑わう武田八幡宮

百体の観音像の刻まれた一石百観音石碑

武田八幡宮の麓に広がる棚田 山梨を代表する穀倉地帯である

 

武田八幡宮神楽より神乃舞

武田八幡宮神楽より天の鈿女の舞

素戔嗚鵜命(すさのうのみこと)大蛇退治の舞

初冬の応仁塚(わに塚)

厳寒の武田八幡宮境内

武田八幡宮 本殿

重要文化財
武田八幡宮本殿 付棟札五枚 旧巻斗一個
昭和四年四月六日 国指定 神山町北宮地
ながれづくり
神社本殿の一形式。切妻照屋根で前の方の屋根が前に長く伸びた形。
平安前期ころに神明造りが仏寺の影響を受けて照屋根となり、それが前方だけ長く伸びて向拝ができたと考えらえている。加茂社がその典型で、現在最古例は宇治上神社本殿である。
創建
武田八幡宮本殿

武田八幡宮の創建は、すこぶる古く崇神(すじん)天皇の御代に(さかのぼ)るといわれています。

その後、いく変遷があって、武田の始祖といわれる信義の時代には武田氏の氏神と仰ぐようになり、それから、三百五十年を経て天文十(一五四一)年、武田晴信(信玄)が家をつぐと、父信虎が十年前に着工した八幡宮の再建の大事業を引きつぎ、その年の十二月二十三日には落成しました。現存する本殿は、今を去る四百五十年程前に信虎・晴信の父子二代により完成したものです。三間社流造り(正面が三()の流造り 図参照)(てり)屋根・・屋根の中程がくぼんだつくり向拝(参詣者の礼拝する所、通常の参詣者の礼拝は拝殿)の前面三間は、大面取りの角柱で格子をはめこんであり、組物は(けた)の外側だけに二手先(図参照 斗・通肘木(とおしひじき)を二段組み合わせ、側壁や柱の面より外側につき出してつくった部分)となる通肘木つき連三斗組(つれさんとくみ)にしてあり、中備(なかそなえ)(組物と組物の中間に入れてある飾り物)は透かし彫りの装飾を入れた蟇股(かえるまた)で(蛙が脚を開いた形で、上からの荷重をささえる材)花模様を中心飾にしています。

側面・背面は板壁を打ち、周囲には刎高欄(はねこうらん)(端がはね上がった形の手すり)つきの榑縁(くれえん)(細長い板を敷居と平行に張った縁側)を巡らしています。

格子戸を開けると、七段の昇高欄(のぼりこうらん)のついた階段があり、階段の上は浜床(はまゆか)を張ってあって、この部分を向拝と呼んでいます。

この奥が本殿となり、正面の三間はおのおの幣軸構(へいじゅくかまえ)(ひと間ごとに門のように縁をつけたつくり)となっており、両開の扉がついており扉には大きな定規縁(襖や扉の合わさり目につけた木)がつけられていて、いずれにも金箔が張りつられており花模様が描かれ、八双金具(飾り金具)で飾っであります。扉の両脇にある方立(ほうだて)(扉と柱の間につけた厚い板)には、松や竹その他の植物を主体とした彫刻がしてあり、今は古びて輝きはありませんが、創建当時のすばらしさが伺われます。

向拝と身舎(母屋〉を結ぶ手挾(向拝の上部向拝柱と屋根裏の傾面とのおさまりをよくするための材)の姿もこの建築の特筆されるものと言われて側面に刻む植物の彫刻は、肉合彫(ししあいぼり)といって特別な彫り方がされております。手挾は全体として迫力ある造りになっています。

ある歴史家は、手挾・蟇股の輪廓の曲線には共通するものがあり向拝柱から桁行の両端に出された木鼻の形態にも似ていて、同期の線の性格の共通性が各部の手法にあらわされていて興味深いといわれています。

妻飾(つまかざり)には、大瓶束(だいびょうつか)(大きな瓶の形をした束)を用い、破風には、懸魚(けんぎょ)(げきょともいう棟木や桁の先端につけた飾)を施し、大きな梁の両端には組物・木鼻・懸魚等の細工がしてあり、物々しく感じられます。

総じて、木割の雄大さの中に繊細優美な装飾的な意匠がされており、晴信が大壇主として再興したこの社殿は、武田氏の強大さを誇る遺構として意義深いものです。

この社の棟礼(縦五十六センチメートル 厚さ約一センチメートル 桧材)には次のように記されています。

武田八幡宮本殿 棟札

(『ふるさと読本「かみやま」』韮崎市立神山公民館、1993、50-52)